夏の庭

夏の庭―The Friends

夏の庭―The Friends


町外れに暮らす一人の老人を、ぼくらは「観察」し始めた。生ける屍のような老人が死ぬ瞬間をこの目で見るために。夏休みを迎えぼくらの好奇心は日ごとに高まるけれど、不思議と老人は元気になっていくようだ――老人との交流を通して喪われ逝くものと、決して失われぬものとのに触れた少年たちを描く清新な物語。


たまたま古書店で出会った一冊だけど、素敵な読書体験となった。
自分の思ってたことが見事に解説にあって、嬉しいような先を越されたような何ともいえない気持ちだけど、とりあえず書きます。


小学生の頃、通学路の途中に、四方を塀に囲まれた空き地があった。そこを秘密基地と銘打って近所に捨てられたホッピングや縄跳び、雑誌やお菓子持ち寄って友だちと過ごした。何をしたわけでもないけど、今でもそのことは鮮明に覚えている。


小学生の世界。それは、家と学校。この二つのコミュニティ、そしてそれらを繋ぐ通学路が彼らの全世界、宇宙なんだと思う。
解説にもあるが、いじめや登校拒否、虐待から子どもが抜け出せないのはひとえに、それが子どもにとっての全世界であり、他に外の世界があるなんて想像も出来ないからだと思う。

主役である木山、河辺、木下の三人は典型的な小学生だ。塾や習い事をしているいたって普通の少年である。
そんな三人は木下の祖母の死をきっかけに人間の「死」に興味を持ち始める。そしてちょうどいい老人を見つけ、観察し始める。
彼らの好奇心は初め、老人の「死」に対してであったが、それはいつしか「老人」に向けられる。その変化がごく自然であり上手だと思った。老人との交流は非常に心暖まるものだった。
老人に限らず「生死」というテーマは作品全体に溢れている。木下が溺れたり、おじいさんからの戦争の話であったり所々に散りばめられている。
そして少年たちは死と対峙し、理解し、生を見つめる。
生を見つめ、将来を考え、彼らは一つ大人になっていった。


夏というギミックは少年の成長にはやっぱり最適だと思う。何故夏なのかといわれても困ってしまうんだけど。
一つは夏休みという限られた期間で成長を表現するのに適していること。
もう一つは夏休みという特殊な期間は学校というコミュニティから離れ、新たな世界へ踏み出す契機にさせるのに適していること。
この辺りが思い浮かぶ。上記二つと、言葉では表現できない「純粋」「躍動感」といった夏の持つイメージが「成長」と結びつけて物語を書きやすいんだと思う。以上主観。


誰かがやめようと言ったわけではないが、空き地には自然と集まらなくなった。六年生の終わりに、秘密基地は駐車場となった。僕はそれを悲しいとも寂しいとも思わなかった。ただ、ぼーっと見つめていた。