うつくしい子ども


うつくしい子ども (文春文庫)

うつくしい子ども (文春文庫)

閑静なニュータウンに九歳の女児殺害事件が起こった。
しかも猟奇的な殺人だった。
そして、犯人として補導されたのは<ぼく>の13歳になる弟だった!


この小説はミステリ小説だ。
ただ、読む前から犯人が弟だとネタばらししている。
つまり、この小説は「誰」が犯人かではなく「なぜ」殺人を犯したのか、ということが主軸に据えられている。

加害者家族という立ち位置

殺人などの被害者遺族がこの小説を読んだらどんな感情を抱くのだろうか。
読んでいる途中にそんなことが思い浮かんだ。
この小説は主人公<ぼく>の一人称で進むので、我々読者の視点も必然的に加害者家族の側になる。
家庭は崩壊した。地域コミュニティからは隔絶される。学校では陰湿なイジメがある。
家庭、地域、学校。これら3つは小中学生にとって言わば「世界」そのものである。
その「世界」から否定されるのはこの上なく辛い。自分は何もしていないのに。
事件後、<ぼく>の本当に近い人しか理解者はいなかった。
まったく関係ない人は適当に罵声を浴びせ、中途半端に近いクラスメイト達は無視をしている。
被害者遺族とは異なる苦しみを、加害者家族は誰にも注目されぬまま味わうのだ。

もう一人の主人公、山崎。

この話を読み解く上では、97年に神戸で起きた酒鬼薔薇事件とは切っても切れない。
当時の過熱報道、偏向報道は凄かった。
正義の名の下に加害者少年の実名、写真が週刊誌に掲載される事態にまで至った。

山崎はある新聞社の社員である。
加熱する報道を余所に、山崎はどこか冷静だ。
これは三人称視点を効果的に利用しているのと同時に、
報道に携わる者一人に焦点を当てることで個人の感情をうまく表現している。
彼を通して、著者は報道の在り方ついて問うている。


こうして、内面である加害者家族の<ぼく>と、外面である新聞社員山崎。
この二つを使ってこの作品は事件を追っている。

「うつくしい子ども」

何故タイトルが「うつくしい子ども」なのか。
<ぼく>ことジャガの母親はこう言う。

「この子はうつくしい子どもだわ、大きくなったら、きれいでかしこい人間になる」

これはジャガの弟と妹に向けて言われた言葉だ。
うつくしい子どもとは何か。
つまりは理想的な家庭、幸せな家族像とは何かを問うているのだ。
母親の発言は特殊なものか。
否定するように、この物語では警察署長が言う。

「それから、うちの子については心配無用だ。親の私がまぶしいくらいすくすくと成長しているよ。
 正直どこまで伸びるか想像もつかないくらいだ。まあ親の欲目かもしれんがな」

この作品では家庭の他にも、地域社会の変遷、閉鎖的な学校(パノプティコン)等をリアルに描いている。
このライブ感はなかなか迫力があった。

物語の終局

あくまでこの小説は、現実事件をモチーフにしたフィクションである。
つまり、話を終わらせなければならない。
そして途中から物語は虚構性を強め、話は収束する。
今回の結末はこの小説の結末であって、作者の真に意図するものとはたぶん違うだろう。*1
この事件(作品)がいかなるものであったのか。それは自分でも考える必要があると思う。


まとまってない感想文で申し訳ないです。
とにかく読者には考えさせられる作品でした。

*1:人によっては結末を投げっぱなしと思う人もいるでしょう。自分も多少肩透かしを食らった感は拭えませんが。